本年のゴールデンウィークを利用して40年来の憧れの地、ブータン王国を訪問した。ブータンは、私にとり“我が青春時代の象徴”であった。当時、マイカーやマイホーム主義が日本中を覆っていたが、若気の至りにて反撥し、鎖国していたヒマラヤ山中の小仏教王国、ブータンに行って自分の習った現代医療を役立てたいと考えていた。
当時、ブータンは鎖国しており、またインドの属国でもあったため入国許可を得るのは大変困難であった。しかし、日本人でたった一人、コロンボプランにて農業指導のためブータンに入国していた西岡さんがいた。このコロンボプランにて入国する以外方法はないため、西岡さんの上司である大阪府立大学教授であり、日本登山界の重鎮でもある中尾佐助先生を訪ねてみた。私の希望をお話したところ、快く西岡さんに紹介状を書いて下さった。
西岡さんも、母国の医師がブータンに滞在することは願ってもないと、当時の国王、ジグミ・ドルジ・ワンチュック藩王に入国を許可するよう働きかけて下さった。しかし、時、利あらず。残念なことに国境線、マクラホンラインを巡って中印紛争中であり、ちょうど国境では砲撃戦が実際に繰り広げられている状況であった。インド側が大敗しつつあり、インド政府は中国に接するブータンへの外国人の入国は一切認めないとし、西岡さんの働きかけも虚しく、私にも入国許可はおりなかった。
以来、ブータンは、いわば私にとって願いの叶わなかった初恋のヒトとなっていた。
2005年4月29日午後成田発。残念ながら霧と雲にてブータンヒマラヤは全く見えない。霧の中を旋回しながら下降、翼端は這い松と岩をかすめながらも機首を立て直し、次の瞬間に“ドスン”。4月30日午前11時、世界最小の国際空港、パロに到着。
現地係員は若い女性で日本語は駄目だが、英語は堪能であった。一般にブータンでは女性が活発に行動しているようだ。彼女もその典型であった。私の“透析事情を知りたい”という希望に即応し、首都ティンプーの国立病院へ連れて行ってくれた。アポイントメントを取っていないにも関わらず、透析担当医を外来から透析室へ呼び出し面談をさせてくれた。
透析室は3床しかないものの、患者数は16名。3台のフレゼニウス4008を日夜稼動させ対応しているとの事であった。室内は清潔、且つ整理整頓されていた。婦長はかなりの知識と経験をもっていた。
医師はDr.Giriといい、インド人で腎臓医でないとのことであった。医療は国営のため無料であるが、機器が限られているのが現状であった。また、東西に細長い国ブータンは、南北に流れるヒマラヤからの河川が東西の交通を分断しているという特有の事情も抱えていた。そのため、国の東端に位置する唯一のの国立大学のある町まで、首都のティンプーからバスで3日もかかるというのである。従って、透析の恩恵に浴するのは、首都の限られた人口のみとなってしまっているようだ。この点、我々の家庭血液透析を始めとする方式は、国営医療であれ、ブータンの医師にとって興味深いものであったようだ。
ブータン国王は、“GDP(国内総生産)の増大”ではなく、“GNH(gross national happiness:国民総幸福量)の追求”を目指している。たとえば、ブータン経済にとって貴重な外貨獲得の基となっているインドへの電力輸出においても、大規模なダムを作らず、小規模の落差発電を利用するなど、公害をもたらす大規模開発を抑制している。更に、decentralizationの実行などユニークな発想も持ち合わせており、国民自身も実行しているという点に大変興味を惹かれた。
NPO法人 いつでもどこでも血液浄化インターナショナル
事務局長 日台 英雄